円城塔に関する簡単な導入

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円城塔は,物理学を基礎とし,複雑系・計算機科学・計算理論・数学基礎論・情報理論などの数理的知見の文学への導入を積極的に行っていた(近年はやや傾向が変化している).特に,文学作品を(物理学的・数学的な)系として捉え,その系が可能とする表現の探索に熱心である.具体的には,物語の冒頭でなんらかの命題を提示し,その系で言及可能・観測可能な範囲を列挙しつつ,その限界を論じるという形で物語を展開することが多い.

この姿勢は,ある程度豊かな任意の公理系について,その公理系からは証明ができないような命題が存在する, という数学的・論理学的事実(第一不完全性定理)を前提としている.任意の系の内部において,その内部にいる限り否定も肯定もできない領域があり,しかも私たちは常に何らかの系の内部にある(私たちには否定も肯定もできない言及不能な領域が常に存在する)のだということを,円城塔は繰り返し主張する *1.ここで,円城塔は数理的な事実を何の説明もなく導入し,高度な議論を行う(なぜなら,円城塔にとって, 任意の事物を数理科学的に解釈することは当然であるから).

第一不完全性定理を前提とし,数理科学の用語を用いて人文科学的な話題を扱う手法は,ポストモダン思想に顕著にみられた特徴だが *2,数理科学的な概念に関してしばしば深刻な誤解が指摘されたポストモダン思想 *3 に対して,円城塔は(SF 的な嘘を除いて)まったく正しいという対比がみられる.

これらのような,自身の営みの有効範囲を再確認し,可能な探索領域すべての探索を行おうとする姿勢は,円城塔の思想的基盤である物理学・数学などの現代数理科学の成果や姿勢を反映したものである.都度見られる自省,飽くなき探求心,そしてそれらを支える正確な数理科学的知見と小説家としての筆力が,円城塔の人気の根源にある(と,私は考える).

*1 文学作品を含め,人間の理性には限界があるという円城塔の主張は,カント『純粋理性批判』およびその影響下にある近代科学に由来する.

*2 そのうえで,ポストモダン思想と円城塔は共に“人間の理性の限界”を認めるが,その存在を前に思考停止するポストモダン思想とは異なり,円城塔は,それでもなお語り得ることについて論を進める.

*3 これに関しては,ソーカル, ブリクモン『「知」の欺瞞』を挙げれば十分であろう.


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